スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

旅の終わり

R0019988_convert_20110528194619.jpg

始まりがあれば終わりがある。

いつかこの日が訪れることは初めから分かってた。
でも、同時にいつまでも来ないんじゃないかっていう気もしていた。
小さい頃、自分がいつか大人になるときが来ることを信じられなかったように。

パタカマヤのネット屋でよくラジオを通して耳にしていたアメリカの最近のヒット曲・・・
あの日と同じメロディーが流れているけど、ふと目を上げるとそこはヒューストン空港。
明るくきれいな近代的設備を前にして何故か少し居心地の悪さを感じることが、自分が確実にボリビアで2年間を過ごしたことの証拠。

飛行機は時速500マイル超で西へ西へと向かう。
先週、パタカマヤで偶然にも自転車で南北アメリカ縦断の旅に挑戦している日本人旅行者に会った。
アルゼンチンの南端ウシュアイアから、はるか遠くアラスカまで自分の力だけを頼りに進んでいく。
その途中、今はアメリカで離れて暮らす、愛する家族にも会いに行くと言っていた。
ちょうど僕がパタカマヤで過ごした最後の日だった。
そんな彼には申し訳ないくらい飛行機はあっという間にアラスカ付近を通り過ぎ、ベーリング海峡に迫っている。

目の前の画面では、世界地図上に飛行機の進路、そしてどこが昼間でどこが夜間かも表示されている。
いつの間にか日本と同じ昼間の位置に自分がいて、ボリビアは夜間になってしまっていた。
「こうしてみんなに授業をしている今、僕のお父さんやお母さん、妹や友だちはみんないびきかいて寝てるんだよ」と、手洗い教室で訪れた学校の生徒たちに日本がいかに遠い場所にあるかを説明してたのは、もはや過去の思い出になってしまった。

こうしてキーボードを打ちながら、ラパスの空港で友だちがくれたボリビア音楽のCDを聴く・・・
任地に着いて2週間も経たないうちに踊った Morenada のリズムが響いている。
重い衣装を着て4時間も踊り続け、さらに沿道の人からしきりにビールを勧められた挙句、最後の方はヘロヘロだったことが今でも鮮明に思い出される。
こうやってたくさんの隊員がボリビア音楽を耳にする度に、彼ら自身がかの地で描いてきたストーリーが蘇り、ときには涙することもあったんだろうなぁなんて思ったり。

去年の今頃、僕は日本に帰りたくて仕方なかった。
汚職で全くといって機能していない市役所に通い、無給でも働き続けるカウンターパートと話しながら、いつかきっと状況が好転し、自分たちが計画してきたプロジェクトも実施できると淡い期待を持っていた。
しかし、いつまで経ってもそのときは訪れず、真冬の夕方6時半、地平線に沈んでいく夕陽を見ながら「おれ、ここで何してんだろ・・・」と、毎日答えの出ない自問自答を繰り返していた。
そんな苦い思い出もあるパタカマヤの町だが、いつも歩いていた道、買い物をしていた商店、TVも暖房もシャワーもなかったけど居心地は良かった自分の部屋の写真を見ると、胸の中に何とも言えない感情が押し寄せてくる。
あんなに出て行きたかったはずなのに・・・
この感覚は「過去は美化される」なんてフレーズを超えている。

2年前の出発前日、僕は「物事の大きさではなく、深さを大事にしたい」と心の中で思っていた。
自分で言うのはおかしいだろうけど、涙を目に浮かべながら別れを惜しんでくれたボリビアの友人一人ひとりが、この自分の中でのテーマの答えになっているんじゃないかな。
R0019934_convert_20110528195100.jpg

日本と反対側で、便利さとは対極にある任地での生活を通して感じたこと・・・
それは、そこで暮らす人も僕も、同じように人間だってこと。
「将来はパイロットになりたい」という飛行機に乗ったこともないパタカマヤっ子は、かつて「野球選手になりたい」と夢見た僕と同じ。
僕にとっての ”The Other Side Story”は今日で終わるけど、彼らのストーリーはこれからもパタカマヤの町で続いていく。
もう一度この町を訪れることができるかは分からないし、彼らに再会することもおそらく難しいだろう・・・
これから反対側で生活していくことになるけど、それでも心だけは「反対側」にいたくない。
それが旅の終わりに心の中で誓うこと。

¡Muchas gracias y hasta luego!
(どうもありがとう、そして、また後で!)

R0019999+-+繧ウ繝斐・_convert_20110528194723
スポンサーサイト

La Paz X Japón

EXPO. La Paz x Japon

大変ご無沙汰しております。
もう2ヶ月以上更新をしていませんでした。
このブログを密かに楽しみにしてくださっている皆様、すみませんでした!
「TAKUに何かあったのでは?」とご親切にも心配してくださった方がいらっしゃいましたら、僕は相変わらず元気にしていますのでどうぞご心配なく!
少し忙しい日々が続いていたのと、筆不精な僕の生来の性質がここにきて顔を出してしまっただけです・・・

久々の記事ですが、やはりこのことに触れずにはいられません。
2011年3月11日に起こった東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)。
NHKの海外放送を通じて見た、映画のような信じられない光景が今でも鮮明に思い出されます。
あのおもちゃのように流されていく家や船や車と共に、実に多くの方々の命、財産、生活、思い出・・・が一瞬にしてさらわれてしまいました。
僕ら協力隊もTVを茫然と眺めるばかりで、ブラウン管の向こう側の出来事を現実のものとして理解するには時間を要しました。
同じ日本人でありながら、そして誰かの役に立とうとして「ボランティア」になりながら、愛する母国の難事をただただ遠くで見ているだけという立場に、悲しみ、不安、歯がゆさ、申し訳なさを噛み締めていました。

しかし、海外にいるからこそできることもきっとある。
今、僕らがボリビアでできることは何だろうか?
ラパスでバリバリ活動するS隊員が発起人となってくださり、この思いを形にすべく、僕らは一つのイベントを立ち上げました。
その名も “La Paz X Japón”(ラパスから日本のために)。
震災関連の写真と原発について説明したパネルの展示、折り紙教室、日本食や折り紙グッズの販売、そしてラパス在住の日本人、ボリビア人アーティストによるコンサートという内容で企画を行いました。
当日は用意した250席を大きく上回る400名以上の来場者があり、日本食も全て完売。
チケットや飲食物、募金等の収益を合わせて、約1440ドルの義援金を集めることができました(義援金は写真提供をしていただいた朝日新聞社を通じて被災地支援に役立てていただく予定です)。
微々たる金額ですが、ラパスの方々の思いがつまっています。
一人でも支援を必要としている方のためにこのお金が有効に使われればと、関係者一同心から願っています。

イベント開催に際して、無償で会場を提供してくださったラパス日本人会館
IMG_5330_convert_20110419224139.jpg

震災写真に見入る来場者
IMG_5345_convert_20110419224750.jpg

来場者の方々には日本へのメッセージを書いてもらい、それをその場でボランティアが日本語に翻訳。その後、ボランティアの書いた日本語訳を見ながら同じように書いてもらい写真を撮影しました。綺麗に転写できるボリビア人にびっくり!
IMG_5366_convert_20110419225138.jpg

たくさんのアーティストがギャラ無しで参加してくれました。写真はチャランゴの巨匠エルネスト・カブール氏。僕が買った教本の著者でもあります。
IMG_5380_convert_20110419225640.jpg

日本人がギター&メインボーカルを務める人気グループ “ANATA BOLIVIA” による「涙そうそう」の演奏でフィナーレ。
IMG_5406_convert_20110419230130.jpg

ラパス市内ではボリビア赤十字社による日本への義援金を募る横断幕も目にします。ボリビア人の多くが「日本は必ずまた立ち上がると信じてる」と励ましの言葉をくれます。
R0019547_convert_20110419230705.jpg
※写真を提供してくださったY隊員、ありがとうございます!

今回のイベントで、僕は当日の舞台裏責任者として役割、そして展示写真の選択やキャプション用の翻訳を行いました。
被災地の惨状を、たとえ部分的であっても、残酷なまでに鮮明に映し出す一枚一枚の写真に目を通し、さらにその写真の裏にあるストーリーを簡潔に、かつ心に迫る表現で描写する説明文を読みながら、数ある写真の中から展示用の写真を選び、説明文をスペイン語に翻訳しました。
途中、自分の意思とは裏腹に、それらの写真に慣れてきている自分、また「選別の対象」として見ている自分に気づき、嫌悪感を覚えたこともありました。
そこには、行方不明の妻の写真を掲げながら被災地を歩く夫の姿、新居も結婚指輪を買うための貯金も全てを失ってしまった新婚夫婦(3月3日に入籍)、警察官に抱きかかえられ、一人避難所に向かう女の子がいました。
せっかく搾った乳をその場で捨てざるを得ない酪農家の写真には、福島で同じような状況に置かれている親戚の姿が重なりました。
「死亡者」、「行方不明者」、「避難者」等といった分類で括られた方々の「数」からは想像できない、耐え難い悲しみ、痛みがあることを思わされました。

何かイベントを成功させると、得てしてそのことに満足して終わってしまいがちです。
悪い言い方をすれば、僕が知らぬ間に感じている「何かしなければ・・・」という衝動は自己満足で満たされたかもしれません。
(そのような次元の話ではないのに、それでも自分自身の中の嫌な部分を見ることはあります・・・不謹慎極まりませんが、正直な思いを書かせていただきます。)
しかし、今回のイベントに参加した一人ひとりが自覚している通り、復興のためには長期的な支援が必要です。
僕一人にできることはほんの僅かなことでしょうが、一人の神を信じる者として、「祈りながら」自分にできることをこれからも行っていきたいと思います。
今回の震災が「神の天罰だ」などと言うつもりは毛頭ありません。
しかし、反感を買ってしまうかもしれませんが、このような悲劇ですら人間の理解を超えたところにある神の計画のうちに起こっていると信じたいと思います。
そして、その神が僕の信じる「愛の神」であるのならば、溢れ出る大粒の涙を無為に大地に流したままにされることはないはずです。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇30:5)

今日はふとパタカマヤの自宅の敷地内に咲くタンポポに目が留まりました。
つい数ヶ月前までそこには何もありませんでしたが、玄関近くのコンクリートの隙間から2本のタンポポが伸びています。
タンポポの花言葉には「真心の愛」、「思わせぶり」、「神のお告げ」など色々あるようです。
綿毛が飛んでいく様子から「別離」という言葉も・・・
これだけ色んな花言葉があるのだから、一つくらい僕が勝手に言葉を加えてもいいでしょう・・・僕ならタンポポには「不屈」という花言葉を贈りたいです。
本当に勝手ですが、そんなタンポポの姿に今の日本の姿を重ねないわけにはいきませんでした。
黄色い歯を失くし、その後真っ白な毛も風に飛ばされてしまった、「元ライオン君」の姿はみすぼらしくなんかありません。
それは「失った者」ではなく「生み出した者」です。
たくさんの「別離」は経験しましたが、きっと日本は「不屈」のタンポポのように、また力強く伸びていくと信じたいです。

今現在も深い悲しみの中にいる方々に静かな慰めが、衣食住など今日を生きるための必要が満たされていない方々に適切な支援が、最前線で危険と隣り合わせで働く方々の上に安全が、そしてその方々の無事の帰宅を待つご家族に平安がありますように。

La Paz para los Niños / 世界の子どもに平和を

IMG_0745_convert_20101123070312.jpg

11月20、21日の2日間、ラパス市内のとあるギャラリーで “La Paz para los Niños” と題した展示会を行った。
内容は、原爆パネルの展示と世界の子どもたちの写真の展示の二部構成。
日本と違い、週末になると町中が静かになるボリビアの首都ラパスで、約300人の方々に来場していただくことができた。

11月20日は「世界の子どもの日」(Universal Children’s Day)と国連によって制定されていることを知り、いつの時代も戦争やあらゆる類の暴力の犠牲になっている子どもたちのことを覚え、反戦と平和への思いを共有する機会を創出する目的で、この企画を立ち上げた。
足を運んでくださった一人ひとりの来場者とも、そして一緒にこのイベントを作り上げてきた他の協力隊員とも、平和への願いを一つにすることができた最高の展示会となった。

前日は、皆で原爆パネルや写真を貼り・・・
IMG_0477_convert_20101123070744.jpg

図面を見ながら慣れない準備の指揮をし・・・
IMG_0481_convert_20101123071111.jpg

無事準備も終わり、開催当日を迎えた。
IMG_0649_convert_20101123081647.jpg
IMG_1134_convert_20101123082123.jpg

訪れた人々の大半が、原爆のことを歴史上の出来事としては知っていた。
しかし、実際に何が起きたのか、写真や多くの情報に触れながら知るのは初めて。
子どもから大人まで老若男女を問わず、原爆パネルを通して伝わってくる凄惨さは人々の心を捉えたようだった。
P1010660_convert_20101123083119.jpg
IMG_0740_convert_20101123083617.jpg

原爆の恐ろしさをまざまざと伝えてくれた写真集。
IMG_0728_convert_20101123084114.jpg

広島と長崎に送るための千羽鶴を一緒に折った。
P1010399_convert_20101123085438.jpg

広島に落とされた Little Boy の実物大の絵を描き、その上に僕らの平和へのメッセージを貼ることで消していくというアクティビティーも行った。
IMG_1094_convert_20101123085912.jpg

世界中から集まった43の国・地域で撮影された400枚弱の写真も参加者の目を引いた。
隊員有志の中で選んだ30枚はキャプションを加えた形でパネルにし・・・
IMG_0864_convert_20101123212914.jpg
IMG_1096_convert_20101124031012.jpg

他の写真も編集を加え、スライドショーという形で全て来場者に見ていただいた。
IMG_0899_convert_20101123213634.jpg

皆と一緒にイベントを行うことができた幸せ・・・
R0031684_convert_20101123211826.jpg

実は、このようなイベントを最初に企画したのは今年の6月だった。
ボリビアに来て早々、とある折り紙団体の代表者(ボリビア人)と仲良くなったが、彼と一緒に原爆パネルの展示と折り紙のアクティビティーを交えたような展示会をしようと、毎週末ラパスに行った際に話し合いを重ねた。
彼は日本にも行ったことがあり、僕だけでなく他の協力隊員とも親しくしてきた。
何より彼や彼の団体のメンバーが作る折り紙作品は、芸術とも言えるほど精巧で美しいもので、日本人の僕らが彼らに折り紙を習うほどだった。

しかし残念なことに、このイベントは結局実現できなかった。
詳細は避けるが、彼や彼の団体の評判が良くないことを耳にし、準備が思うように進まなくなってしまったからだ。
自分が信頼している人からも、同じように信頼している彼のことをまるで犯罪者かのように悪く言われ、必要な助けを得ることができなかった。
それに何より辛かったのは、誰の話を信じていいのか僕自身分からなかったことだ。
彼のことは今でも信頼している。
しかし、結局約1ヵ月半注力し準備してきたことが、このときは辛さ、悔しさ、やるせなさが混じった涙と共に、パソコンの中のデータとして終わってしまった。

それだけに、数ヵ月後に今回の展示会開催を迎えることができた喜びは一入だった。

会場となった国立芸術学院で働き、場所の確保に努めてくれた隊員。
職場の同僚や友人と一緒に、広島や長崎に送るための鶴を折ってくれた隊員。
配属先の学校で平和について、原爆の恐ろしさについて、子どもたちに考える機会を与えてくれた隊員。
映像製作、コンピューター等の分野でプロとして働いてきた経験を、この企画のために惜しみなく捧げ、活かしてくれた隊員。
この企画の運営に必要な資金集めのために、大して余裕のない月の生活費からカンパをしてくれた隊員。
おいしい食事を作って労をねぎらってくれた隊員。
世界中からこの企画に賛同し、写真や励ましの言葉を送り、かけがえのない協力をしてくれた隊員、そして友人たち。
企画の成功のために必要な情報、資料を快く提供してくれた平和市長会議、広島平和記念資料館,広島市役所や長崎市役所の職員の方々。
「これは参考になるぞ」と、原爆に関する色々な写真集や絵本など関連書籍を選び、購入し、ボリビアまで送ってくれた父、そして常に応援してくれた母や妹。
そして、平和を守ることの大切さを教え、この企画を立ち上げようと思ったきっかけをくれた祖母。

たった2日間のイベントの裏に実に多くの方々の支えがあること、そしてその支えを自分が受けることができること。
そのことを思う度に感謝と喜びが湧いてくる。

幸運にも僕らは平和展というイベントをできる立場にいるが、世界には今この時もあらゆる類の暴力に苦しむ人々がたくさんいる。
平和を作っていく作業は、たった一度のイベントだけで終わるわけがない。
このイベントを通して皆の間で共有した平和への思いを、ボリビアでも、日本でも、はたまたこれから向かうかもしれない別の国でも、この世に生かされている限り常に心に燃やし続けていきたい。
そして、心に抱く思いを行動として現せる者でありたい。

平和という名のついた町から、今、平和への願いを送る。

厳冬のパタカマヤ

顔を洗おうと洗い場に行くと、今朝も水道管は凍っている。
冬至にあたる最も寒い日は過ぎたというものの、パタカマヤの冬は相変わらず厳しい。
その寒さに追い討ちをかけるかのように、7月下旬にはボリビアのみならず南米の多くの場所を大寒波が襲い、農作物がダメになったり、多くの人々(特に子供)が凍死するといった被害が出た。
この様子は日本でもニュースになった程であり、「異常気象」という言葉を思い浮かべずにはおれない。

09年7月30日にパタカマヤに赴任してから、早いもので一年以上が経った。
この一年間、楽しい日々や貴重な経験をたくさんいただいたが、「今までこれほどうまくいかないことが続くことはなかった・・・」と思えるほど、多くの失敗を味わった気がする。
そして、「国際協力」という言葉に対して勝手に思い描いていた理想像は大きく変わった。
特にここ最近、大きな失敗(それも自分にはどうすることもできないもの)が続けて起こり、正直モチベーションが下がってしまっている。
まるで大寒波に襲われているかのようだ。

先日、とあるプロジェクトを在ボ日本大使館に持っていき、無償資金協力の依頼をさせていただいてきた。
ちょうど僕が昨年赴任した頃から、パタカマヤ市役所はエル・アルトに本部を置くNGOの技術支援を受け、「学校給食改善プロジェクト」というプロジェクトを開始し、僕もその当初から現在に至るまで、彼らNGOとの各種会合、ワークショップにほぼ毎回参加してきた。
ボリビアでは Desayuno Escolar(学校朝食)を各市町村が提供することが義務となっており、パタカマヤではこれまで袋入りのクラッカーやヨーグルト等の乳飲料を週3日、各学校に配布してきた。
しかし、パタカマヤでの学校給食には問題があった。
配布されるこれらのクラッカーや乳飲料は通りの商店で買えるものと同じであり、しかも毎日同じものが出されるので、子供たちは飽きてしまい、食べたり飲んだりしないどころか、捨ててしまうことさえあったようだ。
仮にしっかり消費されたとしても、これらは低い栄養価しか有していないものであるため、「ただお腹を満たすもの」でしかなかった。
また、基本的に各家庭ではしっかりとした朝食を食べさせることはめったにないようで、多くの子供たちが朝食として一杯のお茶を飲んできて終わりといったことも珍しくない。
結果的に、子供たちの栄養状態は悪く、貧血状態を生み、効果的な学習ができないという問題が生まれている。
問題はこれで終わらない。
パタカマヤの住民の大半は農牧畜業に従事しており、じゃがいも、にんじん、ソラマメ、大麦、キヌア、マカといった農作物や牛乳を生産している。
しかし残念なことに、彼らの多くはこれらの農作物や牛乳を生産し、市場や乳製品を作る企業に売るだけで、自分たちで消費していないのだ。
どれだけ栄養価の高いものを生産していても、それらは彼ら自身の体に取り込まれるのではなく、現金収入源としかなっていない。
そして代わりに、彼らは栄養価の低いクラッカーや乳製品をそのお金で買っているのだ。
ここに悪循環を見て取れると思う。

「学校給食改善プロジェクト」はこの悪循環を断ち切るために、地元で採れる農作物や牛乳を用いて、栄養価の高い給食のメニューを自分たちで作り上げ、自分たちで準備、提供しようというものであり、児童の栄養状態の改善、また地元経済の活性化を目的として始まった。
市役所やNGOだけでなく、市の教育部や教師、農民など多くの方々が計画作りに参加し、一年弱の時間を経て、ようやく新学校給食の配布までこぎつけた。
新学校給食のメニューは、にんじん、ソラマメ、キヌア、マカ等のパンといった固形物、キヌア入りの牛乳や風味をつけたヨーグルトといった液体物の2種類から成り、今後は週3日ではなく5日、さらに毎日メニューを変えることにもなり、一日に児童が摂取すべき栄養の半分をカバーする内容となった。
大変大きな進歩である。

さて、説明が非常に長くなってしまったが、僕が先日日本大使館に持って行ったプロジェクトというのは、この「学校給食改善プロジェクト」に関係するもので、「市営パン工場建設プロジェクト」というものである。
前述の通り、新学校給食メニューには地元で採れる農作物を使った各種パンが含まれている。
パタカマヤには児童7000人分のパンを作れるほどのパン工場はないため、現在、そして当面はエル・アルトにあるNGOの所有するパン工場を使用させてもらい、パンを作っている。
農作物は粉末や液体状にし、エル・アルトまで1時間半をかけて運び、出来上がったパンをまた1時間半かけてパタカマヤに持って帰っている。
時間とコストを考えると無駄が多いことは否めないが、他に方法がないのが現状だ。
したがって、日本大使館の無償資金協力制度を用いて、市営のパン工場建設のためのプロジェクトを申請しようと昨年12月に会議の中で決まり、これまでカウンターパートと共にプロジェクト作りを進めてきたわけだ。
大使館の方にもお話したところ、非常に興味を持っていただき、実は諸事情により一度書類提出の締切りに間に合わなかったものの、ご厚意で待っていただき、ついに半年以上のときを経て、先日プロジェクト提出までこぎつけたのだった。

しかし、申請時に大使館の担当者から返ってきた返答は「採用は厳しい」というものだった。
理由は市役所の銀行口座が凍結されたままで、資金を供与してもプロジェクトの遂行は難しいだろうとの当然の判断からである。
以前の記事にも書いたが、パタカマヤ市役所の銀行口座は2010年3月頃から現在に至るまで凍結されたままである。
過去2代の市長は共に汚職(公金横領と思われる)で捕まり、市長の座から降りているのだが、彼らはお互いを告発し合い、このような結末になったようで、その告発のために弁護士を雇う資金として市役所のお金を不正に流用していたこともあるらしく、結果的に市役所の銀行口座を凍結せざるを得ない状況になったとのことだ。
(ここには全て書けないほど複雑な状況であり、また何が本当かも分からないため分かりにくい説明となってしまい申し訳ないです)
当然、各種プロジェクトは資金もないため動いておらず、市役所の職員も数ヶ月に渡って無給で働いている(既に去った者も少なくない)。
一緒にプロジェクトを作ってきた僕のカウンターパートも無給で働く職員のうちの一人だ。

こんな状況ではあるが、実はパタカマヤ市は既に無償資金協力制度に別のプロジェクトを申請済みで、今年3月にそのプロジェクトの調印式を済ませ、必要資金の小切手も大使館より受け取っている。
しかし、銀行口座が凍結されたままで状況も一向に好転せず、3月から今に至るまで、小切手は小切手のままで、プロジェクトにも何の進展も見られない。
この無償資金協力制度を用いた場合、プロジェクトは一年以内に完了しなければならず、大使館としては前述のプロジェクトが来年3月に終わった後で、僕たちの作っていたプロジェクトを採用するつもりで考えてくださっていたそうだが、前のプロジェクトに何の進展もないため、今月8月には市役所に最後通告をし、小切手も回収しようとしているとのこと。
大使館からの信頼は大きく失われてしまった。

これらの話を大使館担当者の方から伺い、僕もカウンターパートも大変ショックを受けた。
これまで費やしてきた時間と労力・・・僕ら以外にプロジェクト作成に関わってきた人たちの協力や期待・・・パタカマヤの将来に対する夢・・・これら全てが大使館内の一室で、そして僕の心の中で水の泡となって消えていった気がした。
特に、これまで数ヶ月間無給で働いてきたカウンターパートの気持ちを思うとやるせなかった。
実はプロジェクトを提出した前日に、彼の5歳になる息子さんが急病でラパスの病院に搬送されることになり、彼も大変な心配事を抱えながら大使館に赴いていたからだ。
息子さんに付き添うため急いで休暇許可を取り、パタカマヤからラパスへと向かう際、彼に少しのお金を握らせて見送ったが、こんな大変な状況の中でも「明日は必ず大使館に提出に行こう」と涙ぐみながら話していた。

プロジェクトの内容が悪いわけではない。
それどころか、大使館の方も非常に興味を持っていて採用に前向きであった。
大使館へ向かうため市役所を発つときも、市長をはじめ市議会の方々等、皆が期待を持って送り出してくれた。
パタカマヤ市のためと思い、これまでやってきた。
このプロジェクトは僕が勝手に作り、提案し、推し進めてきたわけではなく、僕は無償資金協力制度という存在の紹介をし、必要なときに補佐をしてきただけで、彼ら自身のイニシアチブで内容を決定し、作成も行ってきた。
市役所内外での支持や期待も大きかった。
しかし、皮肉なことに、市役所からの申請は市役所自身の問題によって事実上却下されてしまった。
しかもその問題というのが、一部の権力者の利害に基づくもので、実際に働いてきた職員や関係者のせいではないということ。
日本から来た一人のボランティアには、この問題をどうすることもできない。
ショックの後に心に込み上げてきたのは、怒りと無力感だった。

このことを通して、僕はパタカマヤの現実、ひいてはボリビアという国の現実を見ることができた。
公的機関は一部の権力者の利害によって左右され、本来すべき業務が行われていないのが、この国の現実だ。
行政がすべきサービスは、公的機関ではなくNGOが代行している。
昨日までの身分や地位は関係なく、市長になってしまえば「市長様」と呼ばれ、その家族や友人等も市役所内でのポストが与えられる。
一度安定した地位を手に入れれば、考えることは在任中にどれだけ甘い汁を吸うかだろう。
どこの世界でもある話ではあるが、妬みから来る足の引っ張り合い等の人間関係における醜い部分も市役所内で見てきた。
特に中小の市町村では、この問題が顕著に現れており、貧しさに拍車をかける。

以前、「貧困は頭の中にある」と、とある本や人から聞いたことがある。
パタカマヤには確かに灌漑設備がない、井戸がない、トラクターがない・・・等、物質的な不足を挙げればきりがない。
ただ今回の件を通し、人々、特に権力者のメンタリティーの中にある貧しさを思わずにはいられない。
目が現実を捉え、耳が人々の声を聞き、頭があるべき姿を思い描き、口から出る言葉によって人々を導き、そして手足がその夢を実現する。
もし頭が正しく働かなければ、いくら手足が奮闘してもその努力は虚しい。
大使館からの帰り道、カウンターパートともこんなことを話していたが、仮にこの中に一定の正しさがあったとしても、「パタカマヤの貧しさはメンタリティーの中にある」と訴えることができるだろうか・・・
せっかく得た安住の地位を手放したくない権力者に対しても、生活をやりくりすることだけでも必死な大半の人々に対しても、「メンタリティーの中にある貧しさ」という言葉はどれだけ心に響くだろうか・・・
これも結局、僕のような「富める者」が語る言説の一つに過ぎないのだろうか・・・
色々な考えが頭をよぎる。
答えは今の僕には見えない。

自分の中での一つの救いは、全ての苦い経験が、僕が信じる神への祈りの答えであることだ。
プロジェクトの作成段階から申請に至るまで、あらゆる場面で神に祈ってきた。
「あなたがこれを良しとされるなら道を開いてください。そうでなければ閉ざしてください」と。
その祈りの結果がこうなのであれば、受け入れることは難しいがきっとこれが最善の答えなのであろう。
今は失敗としか思えないような苦い経験でも、神が僕に与えてくださる大きな計画の中では、失敗ではないのかもしれない。
いや、むしろ最終的には全て益につながることは間違いない。
神を信じる者に対して約束されていることはそういうことだ。

こう書いたところで、パタカマヤの現状が変わるわけではない。
それでも一人の信仰者として、厳冬のパタカマヤで神に感謝したい。

初心

『この2年間でテーマとしたいことがある。
それは、「物事の大きさではなく、深さを大事にすること」だ。
もちろん大きな成果を修めるような活動をするのもありだと思うし、
そのこと自体はすごく素晴らしいが、
僕自身は、どれだけ目の前の人と深く関わっていけるか、
「人々」ではなく「人」として現地で出会う一人一人に接していけるかを問いたいと思っている。
とりあえず2009年6月24日現在の心境はこんな感じだ。』
              ― 2009年6月24日「旅の始まり」

このブログを書き始めてから、ちょうど一年。
去年の今頃、出発前に心に抱いていた気持ちを思い出す。

これまでの、そして現在の自分の姿を見つめてみる。
どれだけ「深い」日々を送れただろうか?
この一年間、事ある毎に初心を思い出すようにはしてきた。

「物事の大きさではなく、深さを大事にすること」

しかし、人間というのは欲張りだ。
「やっぱりデカイことしたいよね」と思ったことは数知れず・・・
同時に、人間というのは自分がかわいいものだ。
活動が上手く進まずご近所付き合い以外特に何もできなかったとき、「目の前の人と深く付き合ってるから、まぁいいか」と自己弁護に近いような開き直りをしたことも少なくない・・・

どっちもニセモノ、どっちもホンモノ。

2年間の折り返し地点である2010年6月24日は貴重な日だ。
過去を振り返り、同時に未来に向かって思いを巡らすという2方向のベクトルを持てるのはこのときだけ。

初心忘るべからず。
これからも自分に問い続けていこう。

R0015826_convert_20100625085340.jpg

プロフィール

taku0805

Author:taku0805
名前: TAKU
職業: 村落開発普及員
(青年海外協力隊)
出身地: 埼玉県
現在地: ボリビア
目的地: 神様におまかせ

最新記事

最新コメント

メールフォーム

ご意見、ご質問等はコチラまで↓

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

全記事表示リンク

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QRコード
Copyright © taku0805
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。