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旅の終わり

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始まりがあれば終わりがある。

いつかこの日が訪れることは初めから分かってた。
でも、同時にいつまでも来ないんじゃないかっていう気もしていた。
小さい頃、自分がいつか大人になるときが来ることを信じられなかったように。

パタカマヤのネット屋でよくラジオを通して耳にしていたアメリカの最近のヒット曲・・・
あの日と同じメロディーが流れているけど、ふと目を上げるとそこはヒューストン空港。
明るくきれいな近代的設備を前にして何故か少し居心地の悪さを感じることが、自分が確実にボリビアで2年間を過ごしたことの証拠。

飛行機は時速500マイル超で西へ西へと向かう。
先週、パタカマヤで偶然にも自転車で南北アメリカ縦断の旅に挑戦している日本人旅行者に会った。
アルゼンチンの南端ウシュアイアから、はるか遠くアラスカまで自分の力だけを頼りに進んでいく。
その途中、今はアメリカで離れて暮らす、愛する家族にも会いに行くと言っていた。
ちょうど僕がパタカマヤで過ごした最後の日だった。
そんな彼には申し訳ないくらい飛行機はあっという間にアラスカ付近を通り過ぎ、ベーリング海峡に迫っている。

目の前の画面では、世界地図上に飛行機の進路、そしてどこが昼間でどこが夜間かも表示されている。
いつの間にか日本と同じ昼間の位置に自分がいて、ボリビアは夜間になってしまっていた。
「こうしてみんなに授業をしている今、僕のお父さんやお母さん、妹や友だちはみんないびきかいて寝てるんだよ」と、手洗い教室で訪れた学校の生徒たちに日本がいかに遠い場所にあるかを説明してたのは、もはや過去の思い出になってしまった。

こうしてキーボードを打ちながら、ラパスの空港で友だちがくれたボリビア音楽のCDを聴く・・・
任地に着いて2週間も経たないうちに踊った Morenada のリズムが響いている。
重い衣装を着て4時間も踊り続け、さらに沿道の人からしきりにビールを勧められた挙句、最後の方はヘロヘロだったことが今でも鮮明に思い出される。
こうやってたくさんの隊員がボリビア音楽を耳にする度に、彼ら自身がかの地で描いてきたストーリーが蘇り、ときには涙することもあったんだろうなぁなんて思ったり。

去年の今頃、僕は日本に帰りたくて仕方なかった。
汚職で全くといって機能していない市役所に通い、無給でも働き続けるカウンターパートと話しながら、いつかきっと状況が好転し、自分たちが計画してきたプロジェクトも実施できると淡い期待を持っていた。
しかし、いつまで経ってもそのときは訪れず、真冬の夕方6時半、地平線に沈んでいく夕陽を見ながら「おれ、ここで何してんだろ・・・」と、毎日答えの出ない自問自答を繰り返していた。
そんな苦い思い出もあるパタカマヤの町だが、いつも歩いていた道、買い物をしていた商店、TVも暖房もシャワーもなかったけど居心地は良かった自分の部屋の写真を見ると、胸の中に何とも言えない感情が押し寄せてくる。
あんなに出て行きたかったはずなのに・・・
この感覚は「過去は美化される」なんてフレーズを超えている。

2年前の出発前日、僕は「物事の大きさではなく、深さを大事にしたい」と心の中で思っていた。
自分で言うのはおかしいだろうけど、涙を目に浮かべながら別れを惜しんでくれたボリビアの友人一人ひとりが、この自分の中でのテーマの答えになっているんじゃないかな。
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日本と反対側で、便利さとは対極にある任地での生活を通して感じたこと・・・
それは、そこで暮らす人も僕も、同じように人間だってこと。
「将来はパイロットになりたい」という飛行機に乗ったこともないパタカマヤっ子は、かつて「野球選手になりたい」と夢見た僕と同じ。
僕にとっての ”The Other Side Story”は今日で終わるけど、彼らのストーリーはこれからもパタカマヤの町で続いていく。
もう一度この町を訪れることができるかは分からないし、彼らに再会することもおそらく難しいだろう・・・
これから反対側で生活していくことになるけど、それでも心だけは「反対側」にいたくない。
それが旅の終わりに心の中で誓うこと。

¡Muchas gracias y hasta luego!
(どうもありがとう、そして、また後で!)

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「小さなハート」プロジェクトについてのご報告

昨年10月にブログで紹介しました「小さなハート」プロジェクト。
多くの皆様にご関心を寄せていただいた結果、大変ありがたいことに12月末には必用な額の支援金が集まりました!
プロジェクト作成時にはどれだけの方に支援いただけるだろうか・・・本当に計画が実施できるだろうか・・・など不安がよぎりましたが、それも杞憂に終わったのはいつも応援してくださっている皆様のおかげです。
募金にご協力いただいた皆様、励ましの言葉をくださった皆様、プロジェクトに関心を持ってくださった皆様、お一人お一人に感謝申し上げます。

さて、その後ですが、紆余曲折を経たものの4月8日に機材譲渡式を無事終えることができました。
支援金集めに最も苦労するのではと思っていましたが、一番の山はその後に訪れました。
2~3月にかけて、支援金を使用して必要機材の購入、設置を行っていきましたが、何しろここは日本のように物事がスムーズに運ばないボリビアです。
「案の定」と言っては申し訳ありませんが、様々な問題により必要以上の時間がかかってしまいました。
どんな問題があったかと言うと・・・

①当初プロジェクトを立ち上げた際に集まっていた組合員(代表、副代表など中心人物は除く)が、なかなか集まらなくなったこと。会議の日取り、時間に関する連絡が滞ったり、開始時間に遅れたりすることなど多々あった。そのため、本当にやる気のある女性だけに組合に残ってもらうよう働きかけたところ、当初24名いた組合員は約半数に減ったものの、熱意や積極性のある女性たちが新組合員として入ることで、結果的にはより良いメンバー編成になったと思われる。
②必要物品の再見積もり、購入、設置について、非常に時間がかかったこと。少しでも同じ品物が安く買え、他の必要な物品にお金をまわせるようにと、市(いち)のたつ日に合わせて買いにいったことも多かった。しかし、ちょうどカーニバル(ボリビアだけでなく南米中で広く祝われる一年で最大のお祭り)の時期に重なってお店が開いていなかったこともあり、全てを揃えるまでに時間を要した。
③ボリビア全体に言えることではあるが、当組合も含めて、長い間、援助を受ける側としての体制(心理的にも)であったため、こちらから問い合わせないと、自発的にプロジェクトが動いていかないという問題があった。
④組合におけるリーダーのあり方・協力体制のあり方について、個々人は力をもっているが、組織として運営することについて、経験が浅いせいか、まだうまく機能しないこと。代表者がうまく仕事を分担させられず一人で抱え込んでしまい、結局出来ずじまいということも少なくなかった・・・
⑤Junta vecinal (地区の管理委員会)が期待したほど協力的でなかったこと。具体的には当初彼らが約束していた活動場所の電気配線工事を期間内にやらなかったため、急遽、組合、隊員、NGO自身で整備することになった。

※支援者の皆様宛にはより詳細な報告書を作成しましたので、「協力隊を育てる会」経由で送らせていただきます。お手元に届くまでもう少々お待ちください。他にも興味のある方がいらっしゃいましたらご連絡ください。メール経由で送らせていただきます。

以上に挙げたような問題があり、僕ら隊員とNGOは何度も女性組合と会合を持ち、議論を繰り返し、彼女たちを励まし続ける必要がありました。
新しいことを始めるときは常に苦労が伴いますが、「マチスモ」と言われる男性優位社会で育ち、自発的に何かを行うことに慣れていない田舎のボリビア女性にとって、それは尚更のことでしょう。
プロジェクト作成時には予想していなかった苦労もありましたが、このプロジェクトの目的は機材の譲渡ではなく、その機材を使い、彼女たちが経済的により自立していくことなので、将来を考えるとこれらの「産みの苦しみ」はむしろ必要なことだったと思います。

つい先日、活動場所に様子を見に行きましたが、忙しそうに働く女性たちの姿がありました。
フードプロセッサーを使って作るポテトチップスに対して、近隣の商店等からたくさんの注文が入ってきているとのことで、午前・午後の交代制で対応に追われているとのこと。
元々ベジタリアン・チョリソーを作るために購入した機材ですが、このようにして他の商品を作るのにも役立っています。
本格的にチョリソーを販売していくにはまだまだ課題が残っていますから、それら一つ一つを解決していくのと平行して、このような副次商品の販売も行っていければ良いのではと思います。
嬉しいサプライズでした。

前述の通り、機材の購入・設置に必要以上の時間がかかってしまったため、4月中に全てを終了させるという計画に遅れが生じています。
そのため、僕はこのプロジェクトを最後まで見届けられませんが、残りは共同申請者であるもう一人の隊員がしっかりと引き継いでくれます。
現在、NGOによる技術支援(会計、ベジタリアン・フードの生産・加工過程に関する技術指導)が行われている段階ですが、今後これらの支援が実を結び、女性たちやその家族の生活の質が向上していくことを願うばかりです。

活動場所にある機材一つ一つ、そしてそれを満足そうな表情を浮かべながら扱う女性たちの姿を見るにつけて、皆様からいただいた温かな気持ちを感じます。
このようにして、プロジェクトを企画、実施する機会を与えてくださったことにも感謝しています。
本当にありがとうございました!

以上、ご報告いたします。

※以下、4月8日の機材譲渡式の様子です。

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式典はJICA、NGO関係者、そして女性組合員の家族や友人等、多くの方々に見守られる中執り行われた。

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式典中には購入した機材の使用方法を女性たちが実演してみせた。

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購入した機材には全て、日本とボリビアの国旗をあしらった隊員手作りの「小さなハート」シールを貼付。

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当日は地元TV局2社も取材に来た。

ウユニ塩湖

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ついに行ってきました!
世界の不思議、ウユニ塩湖へ。
標高約3,700mにある南北約100km、東西約250km、面積約12,000km²の広大な塩の固まりであり、塩湖としては世界一の面積を誇ります。
電気自動車の電池に必要と言われ将来的に需要が拡大すると見込まれるリチウムも、世界全体の約半分の埋蔵量がこのウユニ塩湖の下に眠っていると言われ、日本をはじめ各国が採掘権を巡ってしのぎを削っています。

ウユニ塩湖を訪れずしてボリビアは語れない・・・
最近は日本でもTV等で特集されているようで、日本人の間でも広く知られるようになってきた場所です。
他の隊員で人によっては2,3回も訪れているにも関わらず、僕は今の今まで一度も行ったことがありませんでした。
初めは一人でこの大自然の神秘を満喫しようかと思っていましたが、出発前日にいつも買い物をする商店の息子(15歳)に旅行のことを話したところ、「おれも行きたい!」という話になってしまいました。
しかし、問題はお金・・・
早速お母さんに相談しましたが、突然ということもあり、必要な旅費の半額までしか最大でも出せないとのこと。
そりゃそうです・・・日本人の僕にとっては2日ほど働けば十分稼げるお金でも、パタカマヤのような小さな町でシングルマザーとして3人の子どもを育てる彼女にとって、この金額は大き過ぎる出費です。
残額をどうにか工面できれば息子を僕に預けて旅行させることは可能とのこと・・・
でも、残額を工面するといっても、そんな急にあてがあるはずもありません。
「それっておれ次第ってことじゃん」と自分の心の中で声が聞こえました。
そしてそれに呼応するかごとく、お母さんからも「あなた次第よ」と(笑)
日本じゃ人に金を借りて(というかもらって)まで息子を旅行させるっていうのはあまり考えられないと思いますが(ある意味恥ですよね?)、こっちでは、というかこのお母さんにとっては、それほど抵抗感を感じるものでもないようです。
「おいおい、おれ次第かよ・・・」とは思いましたし、「ある特定の個人に対して自腹を切るのはどうなのか」とすごく迷いましたが、こんな機会も滅多にないだろうと思い、最終的に連れて行くことにしました。
いくら仲が良いとはいえ、外国人の若者に自分の息子を預けて旅させるってのも相当なもんですよね。
言い様によっては上手く使われた?のかもしれませんが、ここまでパタカマヤの環境に慣れることができたのは彼らの助けなくしてはあり得なかったですし、この2年間で築いた信頼感もちょっと嬉しかったので、思い切って決断しました。

遠出なんてほとんどしたことのない彼にとって、この旅行は本当に貴重な経験だったようです!
旅行中、そして旅行後の彼の満足そうな表情から連れて行ってよかったなぁと心底思いました。

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ウユニ塩湖に向かう前に訪れた「列車の墓場」。20世紀初頭まで、ボリビアで採掘した大量の錫(スズ)をチリの港町まで運んでいた列車たちがここに眠っています。

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塩湖では浮いてみたり・・・

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乗せてみたり・・・

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鏡に映ってみたり・・・

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そして、塩でできたホテルにも泊まりました!

さえぎるものの何もない塩湖では、夕陽も本当にきれいでした。
太陽が地平線に沈んだとき、「もうすぐこの太陽が昇る反対側に帰るんだなぁ」と少し感傷的な思いにもなりました。
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彼も一緒に連れていこうと思った決め手になったのは、この旅が彼の今後にも少なからず良い影響を与えてほしいと思ったからです。
「視野を広げる」とでも言うところでしょうか。
僕自身、13歳のときに初めての海外旅行でアメリカはカリフォルニアでホームステイをする機会を得ました。
通っている教会の牧師先生がコーディネートしてくれた旅です。
当時の僕といえば、まだ中学校に入ったばかりで勿論英語なんてしゃべれません。
今でも忘れませんが、とあるレストランに夕食を食べに行った際、そこのトイレがあまりにも綺麗でチップとして5ドルも払ってしまった何も知らない「おこちゃま」でした(笑)
でも、このとき食べた大きなハンバーガー、プール付きの家、色々な肌の色を持つ人々、何となく感じた自由な雰囲気・・・等などが僕の中で大きな刺激となり、「またいつかここに帰ってきたい」というモチベーションになりました。
それ以後、英語は特に力を入れて勉強し、大学も外国語大学の英語科に進み、念願の留学もさせてもらえることになったわけです。
大半のボリビア人がウユニ塩湖には行ったことがありません。
そこにいたのはガイドを除きほとんどが外国人でした。
おそらくこの15歳の息子も、この機会を逃していたら一生行くことはなかったかもしれません。
「黄金の王座に座った乞食」とまで揶揄されるボリビア人自身が、自分たちの国の豊かさを知ることができないのは残念ですよね。
この旅が「TAKUとの思い出」だけでなく、彼の今後にとっても忘れられない経験として残っていってくれればと願っています。

ウユニ塩湖旅行、実はこれで終わりじゃないんです!
嬉しい出会いがありました。
ツアーで一緒になった2人の日本人旅行者が何とパタカマヤまで遊びに来てくれたんです!
「バックパッカーをしていると観光地しか回れないし、協力隊の人がどんな場所で生活しているのか見てみたい」と、貴重な旅行中の2日間を割いてわざわざ僕の任地まで来てくれました。
といっても何しろパタカマヤですから、自慢できる観光名所なんてありません。
それでも、自宅や活動先の近隣の学校にお連れして、一緒に手洗い教室をしたり、先生方とバレーボールをしたりしました。
パタカマヤ名物?(本当はオルロの食べ物ですが、うちも負けてません!)のチャルケカン(リャマの干し肉を揚げたような食べ物)も皆で食らいました。
さらに、自宅のすぐ隣にある学校がもうすぐ創立記念日を迎えるということで、みんなで大掃除をする日にちょうど重なったので、3人で箒と塵取りを持って手伝いに行ってきました。
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掃除の後は小学生のフットサル大会も見学。
人懐っこい子どもたちに囲まれて楽しいひとときを送りました。
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大学生のNくんは、今年の暮れ頃までを予定している世界一周旅行の最中。
パタカマヤの地元民との触れ合い、そしてこれから待ち受けているだろう数多くのドラマが、彼の今後に大きな指針を与えてくれることを願っています。
そして、転職を機に南米への旅に出たYさんは気配り上手な頼れる兄貴。
このブログを見る頃にはもう帰国の途についていると思いますが、パタカマヤの風景が鮮やかに旅の1ページを彩り、東京での忙しい毎日の中でも思い出されれば嬉しいです。

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出会いに感謝!また会う日まで!

La Paz X Japón

EXPO. La Paz x Japon

大変ご無沙汰しております。
もう2ヶ月以上更新をしていませんでした。
このブログを密かに楽しみにしてくださっている皆様、すみませんでした!
「TAKUに何かあったのでは?」とご親切にも心配してくださった方がいらっしゃいましたら、僕は相変わらず元気にしていますのでどうぞご心配なく!
少し忙しい日々が続いていたのと、筆不精な僕の生来の性質がここにきて顔を出してしまっただけです・・・

久々の記事ですが、やはりこのことに触れずにはいられません。
2011年3月11日に起こった東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)。
NHKの海外放送を通じて見た、映画のような信じられない光景が今でも鮮明に思い出されます。
あのおもちゃのように流されていく家や船や車と共に、実に多くの方々の命、財産、生活、思い出・・・が一瞬にしてさらわれてしまいました。
僕ら協力隊もTVを茫然と眺めるばかりで、ブラウン管の向こう側の出来事を現実のものとして理解するには時間を要しました。
同じ日本人でありながら、そして誰かの役に立とうとして「ボランティア」になりながら、愛する母国の難事をただただ遠くで見ているだけという立場に、悲しみ、不安、歯がゆさ、申し訳なさを噛み締めていました。

しかし、海外にいるからこそできることもきっとある。
今、僕らがボリビアでできることは何だろうか?
ラパスでバリバリ活動するS隊員が発起人となってくださり、この思いを形にすべく、僕らは一つのイベントを立ち上げました。
その名も “La Paz X Japón”(ラパスから日本のために)。
震災関連の写真と原発について説明したパネルの展示、折り紙教室、日本食や折り紙グッズの販売、そしてラパス在住の日本人、ボリビア人アーティストによるコンサートという内容で企画を行いました。
当日は用意した250席を大きく上回る400名以上の来場者があり、日本食も全て完売。
チケットや飲食物、募金等の収益を合わせて、約1440ドルの義援金を集めることができました(義援金は写真提供をしていただいた朝日新聞社を通じて被災地支援に役立てていただく予定です)。
微々たる金額ですが、ラパスの方々の思いがつまっています。
一人でも支援を必要としている方のためにこのお金が有効に使われればと、関係者一同心から願っています。

イベント開催に際して、無償で会場を提供してくださったラパス日本人会館
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震災写真に見入る来場者
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来場者の方々には日本へのメッセージを書いてもらい、それをその場でボランティアが日本語に翻訳。その後、ボランティアの書いた日本語訳を見ながら同じように書いてもらい写真を撮影しました。綺麗に転写できるボリビア人にびっくり!
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たくさんのアーティストがギャラ無しで参加してくれました。写真はチャランゴの巨匠エルネスト・カブール氏。僕が買った教本の著者でもあります。
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日本人がギター&メインボーカルを務める人気グループ “ANATA BOLIVIA” による「涙そうそう」の演奏でフィナーレ。
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ラパス市内ではボリビア赤十字社による日本への義援金を募る横断幕も目にします。ボリビア人の多くが「日本は必ずまた立ち上がると信じてる」と励ましの言葉をくれます。
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※写真を提供してくださったY隊員、ありがとうございます!

今回のイベントで、僕は当日の舞台裏責任者として役割、そして展示写真の選択やキャプション用の翻訳を行いました。
被災地の惨状を、たとえ部分的であっても、残酷なまでに鮮明に映し出す一枚一枚の写真に目を通し、さらにその写真の裏にあるストーリーを簡潔に、かつ心に迫る表現で描写する説明文を読みながら、数ある写真の中から展示用の写真を選び、説明文をスペイン語に翻訳しました。
途中、自分の意思とは裏腹に、それらの写真に慣れてきている自分、また「選別の対象」として見ている自分に気づき、嫌悪感を覚えたこともありました。
そこには、行方不明の妻の写真を掲げながら被災地を歩く夫の姿、新居も結婚指輪を買うための貯金も全てを失ってしまった新婚夫婦(3月3日に入籍)、警察官に抱きかかえられ、一人避難所に向かう女の子がいました。
せっかく搾った乳をその場で捨てざるを得ない酪農家の写真には、福島で同じような状況に置かれている親戚の姿が重なりました。
「死亡者」、「行方不明者」、「避難者」等といった分類で括られた方々の「数」からは想像できない、耐え難い悲しみ、痛みがあることを思わされました。

何かイベントを成功させると、得てしてそのことに満足して終わってしまいがちです。
悪い言い方をすれば、僕が知らぬ間に感じている「何かしなければ・・・」という衝動は自己満足で満たされたかもしれません。
(そのような次元の話ではないのに、それでも自分自身の中の嫌な部分を見ることはあります・・・不謹慎極まりませんが、正直な思いを書かせていただきます。)
しかし、今回のイベントに参加した一人ひとりが自覚している通り、復興のためには長期的な支援が必要です。
僕一人にできることはほんの僅かなことでしょうが、一人の神を信じる者として、「祈りながら」自分にできることをこれからも行っていきたいと思います。
今回の震災が「神の天罰だ」などと言うつもりは毛頭ありません。
しかし、反感を買ってしまうかもしれませんが、このような悲劇ですら人間の理解を超えたところにある神の計画のうちに起こっていると信じたいと思います。
そして、その神が僕の信じる「愛の神」であるのならば、溢れ出る大粒の涙を無為に大地に流したままにされることはないはずです。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇30:5)

今日はふとパタカマヤの自宅の敷地内に咲くタンポポに目が留まりました。
つい数ヶ月前までそこには何もありませんでしたが、玄関近くのコンクリートの隙間から2本のタンポポが伸びています。
タンポポの花言葉には「真心の愛」、「思わせぶり」、「神のお告げ」など色々あるようです。
綿毛が飛んでいく様子から「別離」という言葉も・・・
これだけ色んな花言葉があるのだから、一つくらい僕が勝手に言葉を加えてもいいでしょう・・・僕ならタンポポには「不屈」という花言葉を贈りたいです。
本当に勝手ですが、そんなタンポポの姿に今の日本の姿を重ねないわけにはいきませんでした。
黄色い歯を失くし、その後真っ白な毛も風に飛ばされてしまった、「元ライオン君」の姿はみすぼらしくなんかありません。
それは「失った者」ではなく「生み出した者」です。
たくさんの「別離」は経験しましたが、きっと日本は「不屈」のタンポポのように、また力強く伸びていくと信じたいです。

今現在も深い悲しみの中にいる方々に静かな慰めが、衣食住など今日を生きるための必要が満たされていない方々に適切な支援が、最前線で危険と隣り合わせで働く方々の上に安全が、そしてその方々の無事の帰宅を待つご家族に平安がありますように。

ちびっこ大冒険 パート2

※一つ前の記事「・・・パート1」の続きです。

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翌朝は6時に家を出る。
1,000mほど下ったところにあるルリバイという町に行くためだ。
お父さんと弟エベルは家の片付けをしたり、畑を見たりしてから先にパタカマヤに戻るということなので、今日はエステバンと二人だけ。
お父さんに簡単な地図を書いてもらった後、「心配はいらないよ!」と言うエステバンの先導で下山する。
裸足にサンダルといういつものスタイルで、すたすたと軽快に山を下りていく。
途中からは傾斜もきつく、道もあってないような感じだったが慣れたもんだ。
僕のひざは笑い始めてるっていうのに、彼は元気そのもの。
動物の糞だってお構いなしに勢いよく踏んでいく姿は、見ていて何だか気持ちが良かった。
「この道何回歩いたの?」と聞くと、「何回も来たよ!少なくとも100回くらいは」との答え。
「でも、うちのお母さんは、も~っと、も~っと早く下るよ。1時間くらいしかかからないんだから」と言った時、僕らが下山し始めてもう2時間以上が経っていた。
母、恐るべし・・・

下山し終わると、そこには "Tuna" という名のサボテンが一面に生える平地が広がっていた。
このサボテンの葉に生る実がすごく美味しい!
「ここ、うちのおじさんの畑だから大丈夫」と言うので、僕らも実を付けたサボテンの葉を一枚いただいて、残りの道中を進むことにした(後ろに見える山の頂上から下山した)。
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しかし・・・この平地が本当に難関だった・・・
というのも、目的地のルリバイまで行くためには、2本の川を渡らなければならないのだが、その川が地面から深さ20mくらい下に流れていて、橋もなかったからだ・・・
絶体絶命のピンチ到来!
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でも、僕らはあきらめなかった!
川に沿って歩き・・・
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そして崖を上り・・・
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合計4時間半歩き続け、ついに渓谷の里ルリバイに到着した!
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ルリバイは標高約2,500m、温暖な気候を利用した葡萄や桃の栽培が盛んな場所だ。
パタカマヤから車でほんの3時間程の場所に、きれいな葡萄畑が広がっているなんて想像もできなかった。
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わざわざ大変な思いをしてまでこの町にやってきたのは、おいしい果物を食べるためと、もう一つ、この町に住むエステバンのおじさん(母方の兄弟)に会うためだった。
エステバンの記憶を頼りにおじさんの家を探し当てたところまでは良かった。
玄関をノックすると、エステバンと同い年くらいの2人の兄弟が顔を出す。
予期せぬ来訪者の横には見慣れぬアジア人・・・彼らが警戒しているのは容易に見て取れたが、エステバンは自分が彼らのいとこにあたることを説明し、おじさんはどこにいるのかと聞く。
それに対して彼らは「父ちゃん、母ちゃんはブラジルに行っちゃって、来年まで帰ってこないよ」と答える。
すぐに近所の家から30代くらいの男性(彼らのおじさんにあたる人)がやってきて、同じようにエステバンのおじさん夫婦はブラジルに出稼ぎに行ってしまって、1~2年は帰ってこないだろうと言う。
子どもたちはおばあちゃんと一緒に長い間お留守番だそうだ。
せっかくここまで来たんだから、ちょっと家に寄っていきなさいと言われ通してもらう。
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聞いてみると、この男性もかつて3年間サンパウロの工場に出稼ぎに行っていたそうで、またすぐにでもサンパウロに戻ろうと思っているとのこと。
「工場での労働は奴隷みたいで大変だけど、こんな小さな町にいても土いじりしかできないし、何しろ向こうじゃ稼げるからな」と語る。
こんな山奥の小さな町からサンパウロのような大都会に出稼ぎに行くなんて大変だと思うが、南米最貧国のボリビアから、ブラジル、アルゼンチン、チリといった近隣諸国への出稼ぎは何も珍しいことではないようで、例えばこの男性の場合、2,000ボリビアース(約300ドル)さえあれば、サンパウロに行って働くことができると言っていた。
陸続きの近隣諸国への移動にはパスポートもビザも要らないそうだ。
パタカマヤのご近所さんの中でも、ブラジルで働いてきたとか、家族がアルゼンチンにいるとか言う人は珍しくないが、「海外移住」が身近でない日本人の僕にとっては、あまりピンとこない話だ。
目的は達成できなかったが、おじさんの家まで来たことの証として写真を撮り、この家を後にする・・・


今回の旅のことを僕は一生忘れないだろう。
エステバンやエベルと一緒にできるおそらく最初で最後の旅ということだけでなく、ボリビアの農村部の人々の暮らしを、ほんの一部ではあるがリアルに体験することができた。
任地パタカマヤも貧しい場所ではあるが、僕が住んでいる町の中心部について言えば、電気、水道、ガス(ガス管ではなく、プロパンガスのボンベのようなもの)が普及している。
活動の中で水道、電気のない農村部に行っても、泊りがけということは滅多にない。
週末に首都に上がれば、日本と何ら変わらない生活を送ることだってできる。
「南米最貧国」とくくられるが、ボリビアの人々それぞれの生活の違いは「一人当たりGDP 4,600ドル」(世界117位:2009年時点)というマクロ的な数字からは全く見えてこない。
今回の旅で、以前よりもっとエステバン一家のことを、そしてボリビア国民の生活の一端をよりよく知ることができた。
ミクロ的な視点を持って任国を知ることができること・・・これは協力隊ならではの特権であると思う。


旅行の前夜、エステバンが「村に着いて、近所の人が先生のことを『この人誰?』って聞いてきたら、『僕の先生』って紹介すればいい?」って言ってきた。
「う~ん、おれは本当の先生じゃないけど、まぁそれでいいよ」と答える。
するとエステバンは、”Eres profe!”(先生は先生だよ!)と言ってくれた。
彼にとって僕は「先生」なんだっていうことが嬉しかった。
残りあと数ヶ月・・・
しっかり最後まで「先生」を務めよう。


おわり

プロフィール

taku0805

Author:taku0805
名前: TAKU
職業: 村落開発普及員
(青年海外協力隊)
出身地: 埼玉県
現在地: ボリビア
目的地: 神様におまかせ

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